私たちがユマニチュードを学ぶ理由
― ユマニチュード認定インストラクターが伝えたいこと ―

    ※50音順

    金沢 小百合(ユマニチュード認定インストラクター/看護師)

    - ユマニチュードで学んだ“ひとをケアする”哲学。
      そのひとらしく生きることができるケアは、みんなを幸せにする。 -

    「あなたはケアをしていて幸せですか?」

    私の“ユマニチュードの恩師”ともいえる方がいます。かつてドクターとして活躍され、重度のアルツハイマーで入院されていました。看護師がケアしようとすると、罵声を浴びせる、腕をつねる、唾を吐くといった行動が激しく出ました。新人の看護師は怯えてしまい、私たち経験を重ねた看護師も病室に入るときは「よし!」と自分を奮い立たせて入っていくという状況でした。

    私が働いていた特別個室病棟は、長期療養されているご高齢の方が多かったのですが、チームの雰囲気はとても明るく前向きでした。できるだけみなさんに体を動かしてもらい、抑制も必要なときだけに限定する。一人ひとりの状況はみんなで共有してフォローしあっていました。一生懸命ケアして優しさを届けたいという気持ちは、人一倍強い。それでも伝わらない現実があり、八方塞がりだったのです。

    当時、私は副師長として、病棟の看護ケアの質を上げる役割を担っていました。それがうまくいかず悩んでいたとき、ユマニチュードに出会ったのです。初めて受けた研修の講義で、ジネスト先生に「あなたはケアをしていて幸せですか?」と聞かれて、ガツンと頭を打たれました。バーンアウト寸前で、自分の「幸せ」を軸にケアを考えたことなどなかったのです。

    最適なケアの答えは「ケアされるひと」にある

    ジネスト先生の講義を受けていくうちに、これまでの自分に足りなかったことがだんだんとわかっていきました。看護の仕事は自分なりに懸命に取り組みましたし、相手に優しさを届けたいという気持ちもある。でも、私に足りなかったのは “ケアするひとは何者か”、そして“ひとをケアする” という哲学だったのです。ケアするひとは何をすべき存在なのか? 相手にとって健康の回復とは何か? その根本的な哲学なしに、ただ目の前で起きていることに対処するために必死に仕事をするひとになっていたのです。

    その哲学がないと、目の前のひとを“患者”という枠に入れてしまい、相手が人間であり、自由と自律がある存在ということが置き去られてしまいます。たとえば、朝、体が不自由な方の病室を看護師が訪ねます。ある看護師は「いい天気だからカーテンを開けましょうね」と言ってカーテンを開けます。別の看護師は「まだ眠そうだから、このままにしておきますね」と話しかけます。どちらがその方にとって幸せでしょうか。

    答えを知っているのは、本人だけです。一番いい方法は「カーテンを開けますか?」と聞くことです。もし、その方が「開けたい」と答えたら「ご自分で開けますか?」と本人の意思をたずねます。「はい」と返ってきたら、その意思を叶えるために行動を助け、できるだけ体を動かしていただく。そうすることで、たとえ病院であっても、そのひとらしく生きていける一助ができるのです。

    私たち看護師は、相手をかいがいしく介助することがケアだと考えがちです。でも、相手は自由と自律をもった人間であり、そのひとの人間性を尊重する哲学をもたなければ、ひとを幸せにするケアはできません。そして、ご本人が体を動かすことが、何よりも健康の回復につながるのです。そこを置き去った頑張りは相手に届かないので、ケアをする私たち自身も、この仕事に幸せや誇りを感じることがむずかしくなっていきます。

    ユマニチュードで本来のそのひとらしさがよみがえった

    ユマニチュードで哲学と技法を学び、私は元ドクターの方の病室に向かいました。ドアをノックして、返事が返ってきたら「こんにちは、金沢です。入っていいですか?」と確認し、正面からアイコンタクトしながら低めのトーンで「これから着替えをしましょうか」と話しかけました。そして、その方が抵抗感を感じにくい背中から触れていきました。

    ユマニチュードで学んだ4つの柱「見る」「話す」「触れる」「立つ」の技法と、良い人間関係を築くための〈5つのステップ〉を重ねていくと、「いいよ」「どうぞ」と素直な返事が返ってきて、すんなりとケアを受け入れてくれたのです。

    他の看護師もユマニチュードのケア技法を実践するようになると、元ドクターは病棟で人気者になりました。本当はとても優しい紳士だったのです。自分の意思が無視されて、見ず知らずの人間に体をいじられ、一方的に指示されるだけの日々にあって、ケアのときに見せた乱暴な行動は自分を守るための抵抗だったのです。

    ユマニチュードで相手の気持ちに寄り添いながらケアができるようになると、あんなに悩んでいたのが嘘のように、私たちの病棟の看護師は、認知症をお持ちの方のケアが大好きになりました。アルツハイマーの知識も、ユマニチュードがこんなにも人を変えることも、私は元ドクターの方から一つひとつ学ばせていただいたのです。

    一人のひととして会いに行く気持ち

    かつては仕事を終わらせねばという義務感から病室のドアの前に立っていた私ですが、ユマニチュードを学んでからは「一人のひととして会いにいく」という気持ちでドアの前に立つようになっていました。その気持ちで病室を訪ねると、その方との間に確かなきずなが生まれて、私自身もケアすることに幸せを感じられるようになったのです。

    こんなにもひとを幸せにするユマニチュードの哲学とそれを叶える技法をもっと広めていきたいと考え、私はインストラクターになりました。実際の研修で「見る」「話す」「触れる」「立つ」の技法をロールプレイで実感してもらうと、ユマニチュードの技法がどう相手に届くのかを身をもって体感していただくことができると思います。そこから、ケアは変わりはじめます。

    ユマニチュードは、認知症をお持ちの方だけでなく、コミュニケーションがむずかしい方、障害をお持ちの方との関係づくりなどあらゆるケアの現場で役立ちます。そして、誰かをお世話する、あるいは、誰かに頼り頼られる日常生活の関係性においても、ひとのきずなを深める4つの柱を再認識する機会となると思っています。ケアが辛いと感じる方、何のためにやっているのだろうという気持ちを抱えている方は、ぜひユマニチュードをご自身で感じてください。ケアは楽しくて素敵な仕事だと、あらためて誇りを感じていただけると思います。

    丸藤 由紀(ユマニチュード認定インストラクター/看護師)

    - “そのひとらしさ”を大切にしたケアは
      ケアを受けるひと、ケアするひと双方を幸せにします。 -

    ケアを受けるひとの心の痛みを理解し、優しさを届けたい

    私はユマニチュードを医療や介護に関わるひとが学べる機会を増やしたいと考えて、インストラクターになりました。高齢者医療の課題は、介護施設のみではなく、病院のあらゆる診療科に関わってきます。そして、これから在宅医療が広がっていくなかで、ケアする家族の方にも学んでいただけたら、在宅医療や介護がみんなにとって幸せなものになると、ひとすじの希望を感じています。

    ユマニチュードに出会って私がまず感じたのは、一番困っていたのはケアを受けるご高齢の方だったということ。言葉での意思疎通がむずかしい認知症をお持ちの方のケアは、ケアするひとをとても悩ませます。でも、その苦しみは相手も同じ。本人からすれば「自分が尊重されたケアを受けている」という認識はないのです。むしろ理不尽に自由を奪われ、意に沿わないことを強制される苦しみの連続。ユマニチュードはその心の痛みを理解することから始まるのです。そして、相手に伝わる方法で「あなたを大切に思っています」という思いを伝えて関係性を築いていきます。

    実際にユマニチュードでケアを実践されているようすを見ると、ケアするひととケアを受けるひとの間に、おだやかで優しい時間が流れていて、ケアを受けるひとが本当に幸せそうでした。その光景を見て「本当はこういう看護がしたくて看護師になったんだよね」という思いがこみ上げてきたのです。

    認知症ケアで生じる悩みは、ユマニチュードで解決できる

    私が認知症ケアに関わるようになったのは、外科病棟の勤務から循環器科病棟に移ったときからでした。ご高齢の方が多く、なかには認知症をお持ちの方もいて、点滴や酸素吸入の管を引き抜いたり、外してしまう。命に関わるからと医師の指示のもと抑制を選択すると、「外して」と何度も懇願される。どうしたらいいんだろうと途方に暮れてしまったのです。

    これまでのスキルでは患者さんの力になることができないと感じて、上司に相談して認知症看護の認定資格をとることを決めました。そのとき、上司に「ユマニチュードという認知症ケアの研修があるみたい。行ってみる?」と勧められ、ユマニチュードに出会ったのです。

    ユマニチュードを学んでから、病棟での看護は少しずつ変わりました。私がいた病棟では、自分で痰を出すことがむずかしく吸引が必要な方が多かったのですが、吸引は患者さんにとって負担が大きく辛いケアです。吸引の必要性が理解できないことから抵抗して看護師を殴ったり、蹴ったりする方もいて大変なケアの一つでした。ユマニチュードでは、脳の機能の変化から起こる認知症の症状や、認知症のひとの心理も学び、そのひとの状態に合わせたケアを実践します。

    たとえば、認知症が進行すると、一つのことに集中すると他のことに注意が向かなくなる特徴があり、その特徴を生かしてケアをしました。ある方の場合、吸引をする前に、相手が理解できる単語や身ぶりで説明すると、うなずきがありました。それから、別の看護師がその方の好きな歌を耳元で歌いながら吸引すると、眉間にしわを寄せながらも手でリズムをとっていました。吸引後は、一緒に歌い「痰をとったら、声がとてもきれいになりましたね」と声をかけると笑顔になり、歌うことで少しずつ痰を自分で出せるようになりました。関係性を築いて、認知症の特徴をケアに生かしたことで、怖がらせることなく行えたのです。

    また、別の認知症をお持ちの方は、荷物をまとめて病室から出て、出口を探して不安そうに廊下を歩いていました。正面から笑顔で出会い「どうされました」とたずねると「家に帰ります」と話されます。以前だったら、抑制や投薬で対処せざるを得なかったかもしれませんが、ユマニチュードのテクニックの一つである「転換」で解決を図りました。

    3人体制での夜勤だったため、夜勤者2人に協力を依頼して20分だけ時間をもらい、病棟のラウンジでその方とお茶を飲みながら好きな話をしてもらいました。その方が楽しめる会話で不安の感情から意識をそらし、私たちに親しみを感じてもらう。すると、ここは安心していい場所だと感じ、笑顔で話しながら病室に戻ってくれたのです。もし、抑制や投薬などで対処していたら、やがてはその方の歩く力まで奪い、寝たきりにしてしまう負のスパイラルに陥ってしまったかもしれません。ユマニチュードはチームアプローチが重要です。スタッフ同士の協力があってこそ叶うものだと実感しました。

    「相手を知る」ことで、ケアするひとは強くなれる

    認知症ケアを専門的に学んだことで、私は院内の認知症ケアチームに参加することになりました。認知症をお持ちの方がいる病棟を横断的に回り、ユマニチュードの技法を用いてケアすることで解決することがありました。だからこそ一番の解決策は、日々関わる現場のチームのひとたちがユマニチュードの哲学と技術を学び、患者さんの生活の場である病院や施設で実施できること。そう考えて、私はユマニチュードの技法を広めていく道を選んだのです。

    インストラクターになってから、病院に直接赴いてスタッフに教えるベットサイド研修も行なうようになりました。実際にユマニチュードのケアを実践していくと、表情や反応が引き出されて「こんなふうに話して笑うんだね」「こんな力があったんだ」と病院スタッフがうれしそうに驚かれる場面にも立ち会ってきました。

    ユマニチュードで一番大切なのは「相手を知ろう」とすることだと感じています。このひとは「何が好きで、どんな人生を送ってきたんだろう」と思いを馳せ、相手のことを知りながら、一人の人間として関係性を築いていくこと。それがそのひとらしさを大切にできるケアにつながっていきます。ユマニチュードのケアのあり方は、ケアするひとの喜びや誇りにもつながるのです。

    こうしたケアを実現していくには、最終的には病棟やユニット単位ではなく、施設全体でユマニチュードに取り組み、実践していくことが必要だと感じています。その第一歩として、まずは一人ひとりが変わること。ケアを受けるひと、ケアする人が幸せになる機会を提供できるよう私なりに貢献していけたらと思います。

    佐々木 恵未(ユマニチュード認定インストラクター/看護師)

    - ケアの現実を変えていく勇気をもって、
      ひとの生きる力を尊重する看護をめざそう。 -

    看護の理想と現実のジレンマを解決する道がある

    私がユマニチュードと出会ったのは、SCU(脳卒中ケアユニット)の病棟看護師として働いていたときです。SCUは脳出血、脳梗塞、くも膜下出血の患者さんを集中治療する急性期病棟で、意識障害や呼吸障害、半身麻痺など症状はさまざま。日々いろいろなことが起こる戦場のような職場でした。

    その日の夕方も緊急手術が入ったり、暴れる患者さんの病室に駆けつけたりと慌ただしく働いていたのですが、ふと後輩看護師と患者さんに目を向けると、そこだけ雰囲気が違っていたのです。その方は、点滴や酸素吸入の管を引き抜いてしまったり、突然奇声をあげて騒ぐことがあり、看護師はみんな対応に困っていました。でも、後輩は微笑みながらその方を優しくさすっていて、その方もニコニコとおだやかな表情を浮かべていたのです。そんな様子を今まで見たことがありませんでした。あとで後輩に聞くと「ユマニチュードというケアの技法なんです」と教えてくれたのです。

    当時の私は、大学病院の救急病棟(救急外来)で働いたのち、地域の病院で慢性期の患者さんの継続看護や退院後介入も経験し、看護師として経験を積んできたつもりでした。でも、SCUはこれまでの経験とは異なり、戸惑うことが多くありました。SCUでは、脳の障害で意思疎通が難しい方や意識が混濁した重篤の方の身の安全を守る必要があり、抑制や精神薬の投与は日常でした。やむなく抑制するときは、患者さんから罵声を浴びさせられることもあれば、泣かれて懇願されることも。そんな瞬間、「私は何をしているんだろう」という思いが頭をかすめました。「優しく頼られる看護師でありたい」「患者さんに寄り添い、笑顔になってもらいたい」そう思ってきたはずなのに、まるで違う現実にジレンマを感じずにはいられなかったのです。

    上司に相談すると、「気持ちはよくわかる。みんなが抱えているジレンマだよね」と受け止めてくれました。これはもう仕方がないのかとあきらめ、自分の中に飲み込もうとしていたときでした。どの看護師にも手に負えない方が後輩のケアでニコニコしている姿を見て、「一体、何をしたの?」「後輩にできるのに私にはできないの?」という思いが湧き上がって、何か一つでも学びとろうとユマニチュードを学ぶことを決めたのです。

    生きる力を最大限引き出せるケアとは

    ユマニチュードの研修を受けて、私はカミナリに打たれるぐらいの強い衝撃を受けました。私が想像していたノウハウを学ぶ研修とは違って、「私が看護師としてやってきたことは本当に正しかったのかな」と根底を覆すような学びの経験だったからです。

    ユマニチュードは4つの技法の一つとして、「立つ」ことを重視します。なぜなら「立つ」ことは、ひとの尊厳そのものだからです。赤ちゃんが初めて立つ瞬間は、まさに人間としてアイデンティティを確立する第一歩で、生涯そのひとを支えます。人間の体そのものが、立つことで心と体の健康を維持できるようになっているのです。だから、ユマニチュードでは1日20分ずつでも立つケアを続けることで、亡くなるその日まで立つ機能を維持させる明確な技法を確立させているのです。

    私はSCUという急性期病棟にいたので「患者さんが立つ=危険」という意識を強く持っていました。体を起こすだけで命にかかわる方、麻痺が進行する方もいれば、リハビリが進んで介助があれば立って歩ける方もいました。でも、意識障害や認知症があればやはり危険なので、多くの方は抑制したり、立たないように声をかけていました。何度も立ち上がろうとする方には、テーブルと壁の間に車椅子を置いて体を動きにくくすることもありました。もし頭を打ったり、骨折をしたらと思うと、立たない方がいいし、それが本人のためだと思っていたのです。

    でも、研修を受けて、自分がよかれと思ってやってきたことは違っていたのかもしれない、相手の健康になろうとする力を私が奪っていたのかもしれないとショックを受けました。でも、ずっと抱えてきたジレンマを解決する答えはここにあるとも感じたのです。目の前が晴れていくような気持ちになりました。

    病棟に戻ってユマニチュードのケアを実践してみると、驚くような変化が起こりました。入院以来、ひとことも言葉を発しない方がいたのですが、ユマニチュードの「見る」「話す」「触れる」を同時に行うケアをしたら、たった1時間ほどで話し出したのです。あまりに驚いて幻覚じゃないかと思ったのですが、それを見た同僚も「本当は話せる方だったんだね」「私たちの関わり方で患者さんは変わるんだ」と感慨深げでした。そして、その病棟からは一人、また一人とユマニチュードを学ぶ看護師が増えていったのです。

    ユマニチュードの輪を医療の現場で広げていく

    それから病棟での看護は少しずつですが、変わっていきました。ユマニチュードを学んだ看護師が揃った夜勤では、毎晩行動が落ち着つかず、薬を内服してもらっている方を「今日は投薬なしで過ごしてもらおう」と学んできたユマニチュードの技法で関わりました。すると、薬を服用しなくても穏やかに過ごして朝を迎えることができたのです。ただ、看護師が交替すると、またいつもの薬剤投与に戻ってしまう。ユマニチュードを継続看護につなげるむずかしさに直面したのです。

    そこで、より多くの医療者が学べる環境を広げていくため、そして、私自身ももっとユマニチュードを深めていきたくて、インストラクターを目指すことにしたのです。そして、病院を辞めて、時間をかけてユマニチュードをじっくり学びながら、ケアするひとのあるべき姿を一つひとつ見直していきました。

    私たちが働く医療機関は「患者さん中心の医療」「患者さんの尊厳を守る」などの素晴らしい理念を掲げています。そして、その理念を大切にしたいという医療者が集まって必死に働いているはずなのに、なぜか現場では真逆の現象が起きていることが少なくありません。そこで働くひとたちが、もし「ケアが楽しくない」としたら、ユマニチュードを学ぶことで「ケアってこんなに楽しいんだ!」「私までうれしくなるんだ」と実感できる変化がおとずれるかもしれません。

    病院や施設でのケアのあり方を変えていくには時間がかかるかもしれませんが、ユマニチュードを実践する人が一人でも増えれば、かつて私が後輩を介してユマニチュードに出会ったように「私もやってみたい」と思うひとがかならず現れるはずです。そんなプラスの輪をみなさんと一緒につなげていければと思います。

    髙澤 君予(ユマニチュード認定インストラクター/介護福祉士)

    - ケアを必要とする方が笑って、自分の力で立つ。
      ひとの尊厳を取り戻せるのがユマニチュードの力です。 -

    あなたは大事な存在――ユマニチュードが伝えたいメッセージ

    ユマニチュード研修を受けた日の感動は今でも忘れられません。実践のワークショップで私は体位交換をされる患者さん役を務めたのですが、ケアするひとの手の触れ方、動かし方、声のかけ方すべてに「あなたを大切に思っている」というメッセージが伝わってきて、泣きそうになってしまったのです。「あなたを大事に思っている、と伝えられることはなんと幸せなことだろう」と。

    ある程度の力を要する体位交換ですが、ユマニチュードではさほど力は必要としません。体の重みを分散できる手順や姿勢が考え抜かれており、しかもベッドの手すりをつかんでもらうなどして本人の能力を最大限活用するからです。強い力を必要としないから、ケアされるひとは体に衝撃や痛みを感じず、むしろ愛情や優しさに包まれます。さらに、できるだけ本人の力を使うので、体の機能を維持することができるのです。

    研修を受けた当時、私は介護福祉士として働くかたわら、認知症の父の介護もしていました。仕事では訪問介護事業所のサービス提供責任者、有料老人ホームでの介護職員などを務めてきましたが、父の介護となると、感情のコントロールがむずかしく、つい感情的な言葉を発してしまうこともありました。苦心したのはトイレ介助でした。トイレに間に合わず粗相してしまうので「足をここに置くんだよ!」「こっち向いて!」と叱り、ぐいと体を動かしてしまうことがありました。父は表情を硬くして悲しそうなときもあれば、「わかってる!」と声を荒げることもありました。その後、決まって私は「なんて優しくないのだろう」と自分を責めました。

    そんなとき、インターネットで「ユマニチュード」という言葉に出会い、「介護を楽しくしてくれるかも」と予感を感じて研修を申し込んだのです。実際に体感して、私はユマニチュードが大好きになりました。認知症の父のために、そして、介護施設で暮らすご高齢の方々、現場で働く介護職員のためにも、もっと勉強して身につけたいと考えたのです。

    認知症の父を介して、ユマニチュードの学びが深まった

    自宅に帰ると、研修で習った技法で父の介護を始めました。これまで話しかけてもほとんど反応しなかった父が私をじっと見つめてくれたり、なかなか飲んでくれなかった飲み物を飲んでくれたりと確かな手応えが感じられました。でも、肝心のトイレ介助では、まだ知識も技術も未熟でユマニチュードの技法で目を見て優しく話しかけたりしたのですが、なかなかうまくいきませんでした。

    そのうち父は寝たきりになり、ユマニチュードを勉強している最中に亡くなってしまいましたが、私は勉強を続けました。新しいことを学ぶたびに私は強いショックを受けました。体を無理に動かされることは本人にとって不安で不快であること、怒鳴ることは防衛反応だったということ。相手が理解して反応するまで時間がかかるので、待たなければいけないこと――父の無念さがようやくわかったのです。そして、ユマニチュードのケアを受けて笑顔を見せてくれているご高齢の方の映像を見て、父だってこんなふうに過ごすことができたはずなのに…と悔しくて涙が出ました。そのことで、私はまた自分を責めました。そして、同じような思いをするひとが世の中からいなくなるように、と絶対にインストラクターになろうと決めたのです。

    自分の力で立ち、意思疎通ができる老後を実現する

    私が喜びを感じるのは、研修を受けた受講生の方々から「ケアが楽しくなりました!」という声を聞けたときです。「ほとんど寝たきりで反応のなかった患者さんが声を出した」「暴力的だったのに優しいひとになった」「目が合うと、笑ってくれるようになった」などと喜びの声がたくさん寄せられます。

    ユマニチュードを学んで考え方が変わると、まず相手との関わり方が変化します。すると、相手から今まで見たことのない反応が現れます。たとえば、拒否がなくなる、おだやかになる、返事をしてくれる、身体に反応がある、笑ってくれる、立ってくれる、歩く、食べてくれるなど、そのひとらしい豊かな“表情”が現れるのです。ケアをする側もやりがいが感じられて、コミュニケーションが深まり、ケアを通じておたがいが幸せを感じる好循環が生まれます。

    私が働いていた施設で、ユマニチュードを取り入れた際もそんな変化がありました。ある入居者の女性は、口腔ケアを強く拒否するので、ごめんねと言いながら2〜3人がかりで手足を押さえて行なっていました。ユマニチュードを学んでからはスタッフと話し合い、無理強いはしないことを決めました。そして、口腔ケアのときは、相手を驚かせないように視界に入る正面で挨拶してから、世間話やご本人が好きなことを話しました。折りを見て「歯磨きしますか?」と歯ブラシを見せると、ご自分で歯ブラシを手に取りました。そして、私が歯ブラシの動作をすると、ご自分で歯を磨き出してくれたのです。

    奥歯や歯の裏は磨きづらそうだったので「お手伝いしますか?」とたずねると、「はい」と言って口を開けてくれました。最後に「たくさんご自分でやってくださって助かりました、ありがとうございます」と伝えたら、あんなに口腔ケアを拒否していたのに「ありがとうね」と言ってくださったのです。

    ケアの目的はできるだけ相手の健康の回復をしてもらうことです。そして、さまざまな技術を通じて「あなたは人間です」「大事なひとです」というメッセージを届けます。それが相手をひととして認めることになるのです。ですから、清拭一つとっても体をキレイにすることだけが目的ではありません。本人の体力や能力、そのときの状態に応じて自分でも動いてもらうことで、自分で立つ力を維持できるように導きます。そして、ケアを通じて「あなたを大事に思っています」と伝えつづけることで、自分の世界に閉じこもってしまった心をノックして、一人の人間としてこの世界に引き戻すのです。

    父が最期に教えてくれたことがあります。亡くなる直前は全介助の寝たきり状態で、言葉はなく、話しかけてもほとんど反応はありませんでした。元気だった頃の父がコーヒーが大好きだったことを思い出し、看護師さんと相談してコーヒーで湿らせたガーゼで口の中を拭いました。すると目を閉じたままの父の目から、ポロリと一粒涙がこぼれ落ちました。目も動かさず、話さず、動かない。そんな状態の父でしたが、ちゃんとわかっていたのです。もう何もわからないだろう、もう聞こえていないだろうと思っても、本人はわかっているし、意思もある。最期の日まで、一人の人間として認めて関わることがどんなに大事か、私は身をもって教えられたのです。

    私はずっとLOVE&RESPECT(愛と尊敬)を大切にしていきたいと考えてきました。ユマニチュードで私が最も教えられたのは、「あなたを大事に思っている」という愛情を相手にわかるように伝える大切さだと感じています。ユマニチュードと出会ったことで、ご高齢の方のケアだけでなく、子どもや家族との関わり、同僚や世の中の人びととの関わりをあらためて考えさせられました。ひとと関わるうえで大切なことに気づかせてくれたユマニチュードを、これからもより多くのひとに伝えていきたいと考えています。

    林 紗美(ユマニチュード認定インストラクター/看護師)

    - 最後まで人間でいるかぎり、希望は消えない。
      幸せな長寿社会をケアの現場から創っていきたい。 -

    ケアすることは、相手の人生に深く関わること

    私たち看護師の選択ひとつで、ケアを受けるひとの人生が大きく変わる――そのことを強く自覚したのは、ユマニチュードを学んでしばらく経った頃でした。

    ユマニチュードが日本に入ってきた2012年8月頃、私は働いていた総合内科病棟を代表してジネスト先生の研修に参加する機会を得ました。その病棟の多くがご高齢の寝たきりの方という状況でした。50人中、半数近くが経管栄養で、排泄もオムツが必要な方がほとんどでした。病気が良くなっても入院生活でADL(日常生活動作)と認知機能の低下などが進みます。在院日数の延長、受け入れ先が見つからない、自己抜針の問題、転倒転落件数の増加、看護師の疲弊等々、多くの問題が山積していました。これらの問題はすべてユマニチュードで解決するのではないかと感じたのです。しかし、従来の看護のやり方が浸透している臨床で、どうユマニチュードを実践したらいいのか悶々と考えていました。

    2013年5月頃、肺炎で入院してきたあるご高齢の方がいました。ご自分から動くことはなく、会話が成り立たない。やがて治療が奏して元気になると、今度はそわそわと落ち着かなくなりました。ナースコールも理解できない様子で、一人で立つと体がふらつき、転倒のリスクが高いので抑制することになりました。しかし、どれだけ厳重に抑えても、いつのまにか抜け出してベッドの脇で立っているのです。

    ある日、私はその方を検査のために車椅子でレントゲン室にお連れしました。技師が「立てますか?」と聞いてきました。ふだんはすべてのケアをベッド上で寝たまま行なっていたのですが、私はベッドの脇に立っていた光景を思い出し、「立てます」と答えていました。そのとき、ハッとしたのです。なぜ、私たちは「立てる」方を抑制していたのだろう――。

    そのとき、ユマニチュードの4つの柱の一つである「立つ」を学んだときのことが思い出されました。人間が生まれて初めて立つ瞬間は、自由と自律を獲得する第一歩です。歩けないように固定してしまうことは、生きる力を無理やり奪っていることにほかなりません。そのためにユマニチュードでは、清拭のときに立ってもらったり、起き上がって着替えをしてもらったりして、通常のケアの中で「立つ」「歩く」時間を少しずつ積み重ね、立つ機能を維持していきます。

    このひとは、自分の力で立てる。私たちは今までいかに上手に抑制するかを工夫してきたけれど、本当に検討すべきことは、どうしたら転ばずに一人で歩けるようになるかを考えることだったと気づきました。ただし、ご高齢の方は骨密度や筋力、バランス感覚も低下しています。どんな動きだとリスクがあるのか、抑制を外したところでどれだけ付き添えばいいのか、すべてが手探り状態で、カンファレンスを重ねました。

    私はまずご本人に動いてもらう中で、相手を知ることが大事だと考え、その方を担当するタイミングで「この方の抑制を外させて。その間、病室に入って付き添うので協力してください」と提案しました。

    私はユマニチュードの相手と良い関係を結ぶための手順「5つのステップ」で病室にいる彼を訪問しました。そして、抑制を外して本人の自由な体の動きに任せて、必要なところは少し手助けをしながら、一緒に時間を過ごしました。彼は廊下に出て、病棟のトイレや洗面台を見て回りました。落ち着いていて穏やかな様子で10分くらい歩き回ると「僕の部屋はこっち?」と聞いてきました。病室の名札を一緒に確認して、4人用部屋の彼のベッドに戻りました。そして、カーテンの中に入る前に「ここは僕の部屋なので、もう大丈夫ですよ。外まであなたをお見送りしましょう」と私を部屋の入口まで送ってくれたのです。

    ご高齢の方を元気にして退院させる病棟をめざす

    その変化は、病棟のスタッフをとても驚かせました。その方は抑制が不要となり、ときどきフロアのロビーで雑誌を読んだりするようになりました。そして、看護師が血圧を測ると、「僕も測ってあげる」と看護師の血圧を測ったり、肩を揉んだりしてくれるようになったのです。

    その方のご家族は、病院から遠く離れた地方にいました。電車、飛行機を乗り継ぐ長時間の移動に心配があったので退院できる状態ではなかったのですが、状態が安定したことで、ご本人とご家族の希望どおり地元の高齢者施設に入居することが叶いました。

    もし、あのまま抑制を続けていたら――。やがて本当に寝たきりとなり、家族と離れて一人ぼっちで人生を終えなければならなかったかもしれない。とくにご高齢の方の場合、私たち看護師のケアの選択一つひとつが、その方の健康や人生にいかに大きく影響するか身をもって実感したのです。

    それから病棟での看護のあり方が少しずつ変わっていきました。ご高齢の方が入院すると長期療養になることが多かったのですが、ユマニチュードの技法を駆使して「来るときより元気にして帰そう」と決めました。そして、自宅から入院した方は自宅に帰す、施設から寝たきりで運ばれてきたら車椅子に座れる状態にして施設に戻す、と改善する症例が増えていったのです。

    「亡くなるその日まで立つ」と考える思考

    ユマニチュードはただ技法をテクニックとして習得するだけでは十分ではありません。もう一つ、本人の健康状態を正しく評価(アセスメント)して、最も本人のためになる技法を選ぶ思考が必要です。例えば、これまでの看護では「手足を動かして暴れる=ケガや事故の危険がある」と評価してきました。一方、ユマニチュードは「手足を動かして暴れる=歩く・立つができる可能性がある」と考えます。

    ユマニチュードの思考がないと、「手足を動かして暴れる」ひとに最適のケアが選べないのです。大人しくしてもらおうと、ユマニチュードの「見る」技法で、瞳を正面からじっと見つめて「動かないでくださいね」と優しく言い聞かせるだけで終わる。これでは、ユマニチュードの技法も、本当の意味では本人のためにならないかもしれません。

    ユマニチュードを正しく活用するには、技法と思考の両方を学ばないと活かせない。私自身、ユマニチュードの技法を学んでもなかなか実践に移せなかったのは、思考が追いついていなかったことが一因でもあったのです。この素晴らしいケアをより多くのひとが実践できるようにしたい。そう考えて、私はユマニチュードを伝えていくことを選んだのです。

    最後まで人間であるかぎり、希望はなくならない

    今の医学では、認知症を治す確実な治療法はまだ確立していません。では、人間は認知症になってしまったら、あるいは不治の病気になってしまったら、その人生に希望や喜びはもう見いだせないのでしょうか? ユマニチュードはそうは考えません。

    病気は治すことはむずかしいかもしれない。でも、そのひとがニコニコと過ごしてくれたら、それだけでも素敵なことじゃない? ひとの名前はすぐ忘れちゃうかもしれないけど、毎日自分の好きなことに熱中して眠りに就ければ幸せだよね? そんなふうに希望の光を見いだすことができるのがユマニチュードだと思います。たとえ体や認知能力が衰えても、そのひとが最後まで「人間である」かぎり、その貴重な日々に希望や喜びを見いだすことができるのです。

    こうしたユマニチュードの哲学を、ケアをするご家族や医療者、地域のひとなどみんなが共通して持てれば、幸せな長寿社会が生まれると思います。その一歩をみなさんと一緒に創っていければと思います。

    盛 真知子(ユマニチュード認定インストラクター/看護師)

    - 認知症のケアは、本来 “幸せなケア”。
      ユマニチュードで頑張らないケアを実現しましょう。 -

    良心の呵責を感じるケアは、本当のケアの姿なの?

    脳血管障害で自分のことがままならない患者さんを叱らず、抑制もせずに看護する方法はないだろうか――私がそう考えるようになったのは、脳神経外科の病棟で看護師長として働きはじめたときからでした。脳神経外科には脳血管障害などで異常行動やせん妄などが出る患者さんが多く、看護師は患者さんを抑制したり、強く叱るのは当たり前でした。そうした光景を初めて目の当たりにして、大変なショックを受けたのです。

    それまで私が22年間働いてきた国立がんセンターでは、患者さんは一緒に戦う同志のような存在でした。辛い治療にめげずに病気に立ち向かう患者さん、治療やケアで支える医療者。おたがいが自立して励ましあい、力を合わせていました。もちろん、脳神経外科で働く医師や看護師も、同じように真剣で必死です。でも、脳血管障害や外傷後に少しでも見当識障害がある患者さんは、「ごめんね」と言いながら手足をがんじがらめに抑制する。本来は離床を促すケアをしなければならないはずの矛盾、そして、良心の呵責を感じながらするケアって、本当のケアといえるのだろうか。そんな疑問が抑えられなくなったのです。

    ケアの可能性を変えるユマニチュードとの出会い

    その後、私は訪問看護ステーションや地域包括支援センターでご高齢の方のケアに関わったのち、退院調整の看護師として働くようになりました。ご高齢の方と関わることは、とても貴重で素敵な体験でした。長い人生の旅路を歩んでこられた方の最後のひとときに関われる幸せ。そして、その貴重な時間が、そのひとらしく生きられる時間であってほしい。その一瞬一瞬を大切にしたくて、ケアに役立つコミュニケーション技法を学ぶようになりました。

    そして2012年のある日、退院調整の病棟ラウンドでご一緒した医師の本田美和子先生から「ユマニチュード」というケアの技法を聞かされたのです。ユマニチュードは認知症をお持ちの方を「ひと」として大切にすることから始まり、その方がもつ能力を最大限生かすケアだといいます。これは私自身が成長するのに役立つかもしれないと興味が湧き、ユマニチュードを考案したイヴ・ジネスト先生から学ぶことになったのです。

    認知症を抱える方の問題行動には「理由」があった

    「見る」「話す」「触れる」「立つ」の4つの柱から成り立つユマニチュードの技法を学ぶと、「昔の看護師はこんなふうに患者さんに接していたよね」という思いが湧き上がってきました。ただ、ケアするひとは、当然、自分はやっているつもりだと思っていることが多いかもしれないとも感じました。

    たとえば、相手の目を見ているつもりでも、相手の視野に入り、正面から瞳を見なければ、アイコンタクトができていないことがあります。また、相手の目線より高い位置で見下ろして話しかけると、二人の関係性は対等ではないというプレッシャーになることがあります。ユマニチュードの「見る」とは〈正面から近く、水平に、長時間見つめること〉。この技法を使うことで、誠実さと平等、安心が伝えられて、相手の方から信頼がもらえるのです。

    ユマニチュードの技法は、細かいものを含めると400を超えるといわれます。その基本は、相手を大切に思っていることを伝え、安心を感じてもらうこと。そうすることでおだやかにケアを受け入れてくれます。抑制の必要はありません。なぜなら、その方は、ここにいても安全だと安心を感じるからです。認知症をお持ちの方にとって、外界は情報量が多すぎて認知が追いつかない世界です。そのことを理解せずにおこなうケアは、知らないひとに体をいじり回される暴力であり、叱責される恐怖でしかなかったのです。

    ユマニチュードは、認知症をお持ちの方の記憶のしくみや心理、認知能力と身体状態に合わせた最適なケア技法が考え抜かれています。ケアされるひととケアするひとの思いのかけちがいを埋めて、信頼関係を結びなおし、安心してケアを受け入れられる状態へと導いてくれるのです。

    ケアされるひと、ケアするひと。みんなが幸せになるケアがある

    私はジネスト先生から直接学んだのち、2013年からインストラクターとして、看護師や介護福祉士、理学療法士、医師、歯科医師、病院経営者、一般の方々にユマニチュードを伝えていくようになりました。

    私がまず伝えたいのは「もう頑張らなくていいよ」ということ。学びにくる受講生の方々は、ケアの壁に突き当たって悩み、必死に頑張ってこられた方たちばかりです。ユマニチュードを知れば、「ごめんね」と謝りながらケアすることはなくなりますし、相手の方を叱ったり、無理強いをするようなこともなくなります。私たちケアする側も心おだやかに優しくケアができて、相手の方とニコッと笑いあったりできる幸せなひとときが訪れるのです。

    忘れられないエピソードがあります。家族介護者講座で出会った女性から「若年性認知症の夫の介護が大変で困っています。娘の結婚式があるのですが、出席はできないですよね。ほとんどあきらめているのですが…」と相談されたのです。私たちは「ご主人に出席してもらいましょう!」と背中を押しました。そして、ご主人の症状や式の流れを聞き、「家では着替えを嫌がっても、式場に移動して着替えを専門家にお願いしたら、その幸せな雰囲気で着替えができたり、父親としての自覚や想いから参列できるかもしれませんよ」「関係者や列席者には、必ず正面から瞳を見つめてからご主人に声をかけるように伝えておきましょう」とユマニチュードを使った対応で参列ができる可能性をお伝えしたのです。

    次の研修の日、女性は明るい表情で現れて、ご主人は挙式と披露宴をずっとニコニコで過ごし、花嫁とバージンロードを歩くことまでできたと報告してくれました。そして、1年後にお電話したときは「大変なこともありますが、ユマニチュードを続けて二人で仲良く暮らしています」とお話しされていました。

    ケアされるひと、ケアするひとという関係を超えて、「ひと」として通じ合うことができるのがユマニチュードの真髄です。その瞬間があるからこそ、私たちケアするひとは、強く優しくなれるのです。ユマニチュードはまるで魔法や奇跡のようにいわれますが、誰でも習得して実践できるケア技法です。ぜひ私たちと一緒に学び、みんなが幸せになれるケアを実現していきましょう。