インストラクターの声

最後まで人間でいるかぎり、希望は消えない。
幸せな長寿社会をケアの現場から創っていきたい。

林 紗美
ユマニチュード認定インストラクター / 看護師
IGM-Japon合同会社 所属

ケアすることは、相手の人生に深く関わること

私たち看護師の選択ひとつで、ケアを受けるひとの人生が大きく変わる――そのことを強く自覚したのは、ユマニチュードを学んでしばらく経った頃でした。

ユマニチュードが日本に入ってきた2012年8月頃、私は働いていた総合内科病棟を代表してジネスト先生の研修に参加する機会を得ました。その病棟の多くがご高齢の寝たきりの方という状況でした。50人中、半数近くが経管栄養で、排泄もオムツが必要な方がほとんどでした。病気が良くなっても入院生活でADL(日常生活動作)と認知機能の低下などが進みます。在院日数の延長、受け入れ先が見つからない、自己抜針の問題、転倒転落件数の増加、看護師の疲弊等々、多くの問題が山積していました。これらの問題はすべてユマニチュードで解決するのではないかと感じたのです。しかし、従来の看護のやり方が浸透している臨床で、どうユマニチュードを実践したらいいのか悶々と考えていました。

2013年5月頃、肺炎で入院してきたあるご高齢の方がいました。ご自分から動くことはなく、会話が成り立たない。やがて治療が奏して元気になると、今度はそわそわと落ち着かなくなりました。ナースコールも理解できない様子で、一人で立つと体がふらつき、転倒のリスクが高いので抑制することになりました。しかし、どれだけ厳重に抑えても、いつのまにか抜け出してベッドの脇で立っているのです。

ある日、私はその方を検査のために車椅子でレントゲン室にお連れしました。技師が「立てますか?」と聞いてきました。ふだんはすべてのケアをベッド上で寝たまま行なっていたのですが、私はベッドの脇に立っていた光景を思い出し、「立てます」と答えていました。そのとき、ハッとしたのです。なぜ、私たちは「立てる」方を抑制していたのだろう――。

そのとき、ユマニチュードの4つの柱の一つである「立つ」を学んだときのことが思い出されました。人間が生まれて初めて立つ瞬間は、自由と自律を獲得する第一歩です。歩けないように固定してしまうことは、生きる力を無理やり奪っていることにほかなりません。そのためにユマニチュードでは、清拭のときに立ってもらったり、起き上がって着替えをしてもらったりして、通常のケアの中で「立つ」「歩く」時間を少しずつ積み重ね、立つ機能を維持していきます。

このひとは、自分の力で立てる。私たちは今までいかに上手に抑制するかを工夫してきたけれど、本当に検討すべきことは、どうしたら転ばずに一人で歩けるようになるかを考えることだったと気づきました。ただし、ご高齢の方は骨密度や筋力、バランス感覚も低下しています。どんな動きだとリスクがあるのか、抑制を外したところでどれだけ付き添えばいいのか、すべてが手探り状態で、カンファレンスを重ねました。

私はまずご本人に動いてもらう中で、相手を知ることが大事だと考え、その方を担当するタイミングで「この方の抑制を外させて。その間、病室に入って付き添うので協力してください」と提案しました。

私はユマニチュードの相手と良い関係を結ぶための手順「5つのステップ」で病室にいる彼を訪問しました。そして、抑制を外して本人の自由な体の動きに任せて、必要なところは少し手助けをしながら、一緒に時間を過ごしました。彼は廊下に出て、病棟のトイレや洗面台を見て回りました。落ち着いていて穏やかな様子で10分くらい歩き回ると「僕の部屋はこっち?」と聞いてきました。病室の名札を一緒に確認して、4人用部屋の彼のベッドに戻りました。そして、カーテンの中に入る前に「ここは僕の部屋なので、もう大丈夫ですよ。外まであなたをお見送りしましょう」と私を部屋の入口まで送ってくれたのです。

ご高齢の方を元気にして退院させる病棟をめざす

その変化は、病棟のスタッフをとても驚かせました。その方は抑制が不要となり、ときどきフロアのロビーで雑誌を読んだりするようになりました。そして、看護師が血圧を測ると、「僕も測ってあげる」と看護師の血圧を測ったり、肩を揉んだりしてくれるようになったのです。

その方のご家族は、病院から遠く離れた地方にいました。電車、飛行機を乗り継ぐ長時間の移動に心配があったので退院できる状態ではなかったのですが、状態が安定したことで、ご本人とご家族の希望どおり地元の高齢者施設に入居することが叶いました。

もし、あのまま抑制を続けていたら――。やがて本当に寝たきりとなり、家族と離れて一人ぼっちで人生を終えなければならなかったかもしれない。とくにご高齢の方の場合、私たち看護師のケアの選択一つひとつが、その方の健康や人生にいかに大きく影響するか身をもって実感したのです。

それから病棟での看護のあり方が少しずつ変わっていきました。ご高齢の方が入院すると長期療養になることが多かったのですが、ユマニチュードの技法を駆使して「来るときより元気にして帰そう」と決めました。そして、自宅から入院した方は自宅に帰す、施設から寝たきりで運ばれてきたら車椅子に座れる状態にして施設に戻す、と改善する症例が増えていったのです。

「亡くなるその日まで立つ」と考える思考

ユマニチュードはただ技法をテクニックとして習得するだけでは十分ではありません。もう一つ、本人の健康状態を正しく評価(アセスメント)して、最も本人のためになる技法を選ぶ思考が必要です。例えば、これまでの看護では「手足を動かして暴れる=ケガや事故の危険がある」と評価してきました。一方、ユマニチュードは「手足を動かして暴れる=歩く・立つができる可能性がある」と考えます。

ユマニチュードの思考がないと、「手足を動かして暴れる」ひとに最適のケアが選べないのです。大人しくしてもらおうと、ユマニチュードの「見る」技法で、瞳を正面からじっと見つめて「動かないでくださいね」と優しく言い聞かせるだけで終わる。これでは、ユマニチュードの技法も、本当の意味では本人のためにならないかもしれません。

ユマニチュードを正しく活用するには、技法と思考の両方を学ばないと活かせない。私自身、ユマニチュードの技法を学んでもなかなか実践に移せなかったのは、思考が追いついていなかったことが一因でもあったのです。この素晴らしいケアをより多くのひとが実践できるようにしたい。そう考えて、私はユマニチュードを伝えていくことを選んだのです。

最後まで人間であるかぎり、希望はなくならない

今の医学では、認知症を治す確実な治療法はまだ確立していません。では、人間は認知症になってしまったら、あるいは不治の病気になってしまったら、その人生に希望や喜びはもう見いだせないのでしょうか? ユマニチュードはそうは考えません。

病気は治すことはむずかしいかもしれない。でも、そのひとがニコニコと過ごしてくれたら、それだけでも素敵なことじゃない? ひとの名前はすぐ忘れちゃうかもしれないけど、毎日自分の好きなことに熱中して眠りに就ければ幸せだよね? そんなふうに希望の光を見いだすことができるのがユマニチュードだと思います。たとえ体や認知能力が衰えても、そのひとが最後まで「人間である」かぎり、その貴重な日々に希望や喜びを見いだすことができるのです。

こうしたユマニチュードの哲学を、ケアをするご家族や医療者、地域のひとなどみんなが共通して持てれば、幸せな長寿社会が生まれると思います。その一歩をみなさんと一緒に創っていければと思います。